たこやき、8個目

こんにちわ、たこやきです。

10連休も今日で終わりです。

 

今日のお題は、差別と偏見です。

ちょっと違う切り口から書いてみたいと思います。

 

というわけで、

障害者同士の差別や偏見について書いていきます。

 

 

障がい者の差別や偏見は、一般的には

社会などから受けることを指します。

しかし、現実問題として、障がい者どうしにも

差別や偏見は存在しています。

 

私の体験も交えながら、書いていきたいと思います。

 

障がい者同士の差別は、結構古くからあると思います。

少なくとも、10年前くらいまでは、

身体障がいの方による、精神障がいへの差別がありました。

 

身体障がいの方々の言い分は、

「精神の障がいなんて甘えだ」

「身体が動かない(ない)ことに比べたら、大したことがない」

「精神障がいは治るけれど、身体障がいは治らない」

などです。

 

確かに、私も身体障害者手帳を取得して、その時の

病状の大変さから、そのように思ってしまうのも無理からぬことだと

思います。

 

でも、それは思っていても口に出してはいけない感情だと思います。

少なくとも、10年前までの障がい者活動の主体は身体障がいの方が

中心でした。

精神、発達の障がいの方はあまり主体的に参加できていなかったように

見受けられます。

 

精神や発達の病気やその症状もまた障がいと認定されるに足ると

認知されてきたためだと考えています。

 

しかしながら、未だに身体障がいの方の中には、

精神、発達の障がいを、障がい者として認めない方々が

多数おられます。

 

その方々に多く共通している考えとして、

「自分(の障がい)こそ世界で一番大変である」

という考えです。

このような自己中心的な考えだけで動いていては、

障がい者同士の差別や偏見はなくならないと思います。

 

また、同じ種類の障がいであっても、差別はあります。

私が障がい者雇用で働いていた時、

同僚の障がい者から、私が会社より受けている

合理的配慮が、身勝手でわがままなものだとされました。

 

当時、私は慣れない環境で調子を崩しかけ、会社と相談して

時短勤務や仕事内容の切り分けをしてもらっていました。

そのことには今も感謝しています。

 

しかし、同じ障がい者雇用の同僚にその配慮が理解されないのが

何より堪えました。

結局、私は調子を本格的に崩してしまい、退職することになりました。

 

私にも悪いところはあったと思います。

しかし、合理的配慮の提供までわがままと言われてしまったら、

私には居場所がありません。

 

 

他方、こんなこともありました。

私は難病でもあり、最近は難病者としての活動も多いのですが、

障がい者の方に言われたことがありました。

 

「難病って、詐病でしょ?」

「手術を受けたんだから、治ったんだよね?」

「難病って、大したことないんでしょ?」

 

書いていて頭痛がしてきましたが、これは今までに私が言われたことです。

そもそも、難病とは、

「発症の原因が特定できない」病気で、

「完治の見込みがない、または著しく低い」症状で。

「治療法が確立されていない」治し方がわからない病気です。

 

しかし、

「私の障がいや症状こと世界で一番大変」という思考の方には、

難病の難しさを説いても、届きません。

 

 

このような差別や偏見をなくすには、

私は哲学の実践と、人間性の研鑽しかないと思います。

 

こう書くと、難しいことのように聞こえますが、

哲学の実践とは、自分以外の異質を理解すること、

人間性の研鑽とは、聞く耳を持ち、対話すること

 

この単純なことを突き詰めるしかないと、考えています。